BLと少年愛の研究室

児童買春・児童ポルノ禁止法と現在の少年愛【少年愛の歴史~文化から虐待への認識転換~⑭】

現代の少年愛を語るとき、もう一つ注目しておかなければならない法律があります。
1999年に成立した児童買春、児童ポルノに係る行為等の規制及び処罰並びに児童の保護等に関する法律(ここでは、以下「児童買春・児童ポルノ禁止法」とする)です。

※「児童買春・児童ポルノ禁止法」については、多くの専門家の方々が論じているので、ここでは、あくまで少年の性被害に焦点を当て、できるだけ簡単にまとめることにします。

14回に分けて少年愛の歴史について書いてきましたが、今回は、そのまとめとして、この法律と、現在の少年愛について思うことを書いておこうと思います。

「児童買春・児童ポルノ禁止法」制定の背景と特徴

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児童ポルノは、欧米で1970年代に精力的に生産され、その過程で性的虐待が行われることや、児童ポルノがさらなる性的搾取・性的虐待を助長する可能性が問題となっていました。*1

1989年に国連で採択された「児童の権利条約」第34条で児童の性的搾取が禁止された後も、世界では児童買春や児童ポルノに関する議論が行われていました。

チェンマイ会議

1990年5月、観光と児童買春」をテーマにした国際協議会がタイのチェンマイで行われ、タイ・スリランカ・フィリピンを中心とした子ども買春の現状について、加害者を送り出した国の名前とともに報告が行われました。その国の中には、日本も含まれていました。*2

ストックホルムでの世界会議

そして、1996年8月にストックホルム行われた児童の商業的性的搾取に反対する世界会議で日本人によるアジアでの児童買春と日本国内で大量に作られる児童ポルノに対して非難が集中したことにより、政府にも規制への意識が高まりました(前掲書:園田)。

日本の書店に並んでいた児童ポルノ

日本は、1994年に子どもの権利条約を批准したものの、国内での法整備は行われていませんでした。1995年から96年に日本キリスト教婦人矯風会が行った、全国110ヶ所を超える書店を対象とした子どもポルノの実態調査によれば、96%以上の一般書店で児童ポルノが売られていたそうです(前掲書:日本こどもを守る会編、p22)。

法制定と非親告罪という特徴

このような世界的な児童買春と児童ポルノの規制の流れの中で成立したものが、1999年の、いわゆる「児童買春・児童ポルノ禁止法」です。

この法の大きな特徴は、刑法と異なり、非親告罪であることです。
そのため、加害者からの報復などを恐れて訴える事のできない場合でも処罰が行うことが可能となり、子どもへの性暴力からのより手厚い保護が行われるようになりました(前掲書:園田)。

 2014年の法改正で単純所持が禁止された

そして、2014年には、定義の見直しとともに、単純所持が禁止されるなどの法改正が行われました。
【参考:法務省だより↓】
法務省だより あかれんが Vol.47 (moj.go.jp)

児童買春・児童ポルノ男児も対象になっている       

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児童買春・児童ポルノというと、女児を対象として思い浮かべる方が多いかもしれませんが、男児が対象になる場合も多くあります。

外国では男児の方が人気のある場合も

先述した1990年のチェンマイ会議では、男児もその対象になっていることが報告されました。

スリランカでは、児童売買春の90%が男子だったそうです。管理組織のもとで売春させられているのは約1万人、その他にリゾートの海岸やホテルの回りに立つ8歳から16歳ぐらいまでの「ビーチ・ボーイ」と呼ばれる男の子たちも多くいるとの報告がなされました。

フィリピンでも、売春させられている子どもの2万人のうち、男の子が60%、女の子が40%だったそうです。

【※ECPATストップ子ども買春の会様のHPが詳しく、引用させていただきました↓
チェンマイ会議(1990年) | ECPAT/STOP JAPAN

日本でも男児ポルノ専門サイトが摘発された   

日本でも、当初は女児にだけ注目が集まっていました。
しかし、2010年4月、男児ポルノを専門に扱った国内のサイトが初めて摘発されたことにより、男児も性的対象になりうるのだということが認識されました。

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男児ポルノ専門サイト」が摘発された記事。被告は「少年愛の素晴らしさを広めるためだった」と述べていた。
(出典・2010年4月15日 読売新聞)

現在の児童買春・児童ポルノの定義

法改正後、現在、児童買春・児童ポルノはどのように扱われているのでしょうか。
1条と2条を引用してまとめておきます。

「児童」・・・18歳に満たない者

●「児童買春」・・・対償を供与し、又はその供与の約束をして、当該児童に対し、性交等(性交若しくは性交類似行為をし、又は自己の性的好奇心を満たす目的で、児童の性器等(性器、肛門又は乳首をいう。以下同じ。)を触り、若しくは児童に自己の性器等を触らせることをいう。以下同じ。)をすること

児童ポルノ」・・・写真、電磁的記録に係る記録媒体その他の物。次のいずれかに掲げる児童の姿態を視覚により認識することができる方法で描写したもの。

①児童を相手方とする又は児童による性交又は性交類似行為に係る児童の姿態
 
②他人が児童の性器等を触る行為又は児童が他人の性器等を触る行為に係る児童の姿態であって性欲を興奮させ又は刺激するもの
 
③衣服の全部又は一部を着けない児童の姿態であって、殊更に児童の性的な部位(性器等若しくはその周辺部、でん部又は胸部をいう。)が露出され又は強調されているものであり、かつ、性欲を興奮させ又は刺激するもの
 

 

現在の少年愛について

 

戦後の少年愛の大きな特徴は、児童の権利が唱えられ、児童虐待防止法の成立など法整備が進むとともに、「同性愛」「男色」という言葉から分離したことだと思います。

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26歳の青年が11歳の少年に懸想して起こした事件。「同性愛」という言葉が使われている。
(大正15年5月25日 東京朝日新聞
小児性愛という概念

今では、「同性愛」は成人の男性同士・女性同士に用いられる言葉となっています。
少年に向けられる愛は、精神医学の上では小児性愛ペドフィリア)」と呼ばれ、少女に対する性愛と同じ、子どもを性の対象とする性嗜好と解されています。

少年の性被害に関する研究の進歩

現在では、子どもへの性虐待の現状調査等が行われ、少年への性虐待に関しても、心身にどのような影響を与えるか、海外の研究者たちを中心に調べられています。

例えば、リチャード・B・ガードナーは同性愛の男性、異性愛の男性、女性、少年、肉親など少年愛者に限らず様々な人間が少年への性加害を行っていることを明らかにし、性的虐待を受けた男性は、高血圧・胸痛・睡眠障害・悪夢・息切れ・めまい・拒食や過食などの身体症状がよく見られ、また子ども時代から薬物依存アルコール依存を呈しやすいということを指摘しています。また、性的指向や性同一性への危機ももたらすことにも言及しています。*3

このように、少年の性被害の現状が明らかになったことは、今までの時代にはないことであり、子どもの保護という点で大きな進歩だといえるでしょう。

少年愛=犯罪という図式 と表現規制

しかし、その一方で、少年愛に対し、虐待や犯罪という言葉をすぐに結び付けてしまう傾向が生じたようにも思われます。

1970年代、竹宮恵子先生の『風と木の詩』や萩尾望都先生の『トーマの心臓』などに始まる少年愛漫画のブームが起こり、「漫画で楽しむ」という新しい少年愛の形が生まれました。
現在では、「BL(ボーイズラブ)」と呼ばれる男性同士の恋愛を描いた漫画が大きな市場をつくっており、その中には「ショタ」と呼ばれる少年同士、または少年との恋愛を扱った作品も多くあります。

「児童買春・児童ポルノ法」改正の際は、そうした漫画・ゲームへも「目に余」るとして非難が生じました。
【参考:参議院HP↓】
青少年健全育成のため、児童買春、児童ポルノに係る行為等の処罰及び児童の保護等に関する法律の早期改正を求めることに関する請願:請願の要旨:参議院 (sangiin.go.jp)

2010年の東京都青少年健全育成条例の改正の際には、漫画を規制対象とする提案が行われました。これは、表現の自由の問題との関わりもあり、大きな議論を巻き起こしました。

今も、漫画・ゲームの規制をどうするかという議論はありますが、漫画や絵の中の少年を楽しむことが、少年への性虐待という現実での犯罪にどれほどの影響をもたらすのかということは明らかになっていません。

そういった研究や規制の方法論が不十分なまま、創作物にまで規制が強められることには、疑問を持っています。

おわりに:少年愛の歴史を振り返って

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これまで14回に分けて、日本の少年愛について、時代ごとにどのように認識され、法規制が行われてきたかを見てきました。

「日本は昔から男色に寛容だった」と言われたりもしますが、実ははるか1000年以上前の平安時代の頃から明治時代の間、性行為を伴った少年愛が存在しながらも、様々な規制が行われていたことが分かりました。

また同時に、少年愛は風俗・文化として存在し、能や歌舞伎という文化を生み出したこと、武士の間では、主従関係を固めるための制度として機能していたことも確認できました。

歴史の中には、攻め手と受け手の少年、双方の同意に基づく関係もあったと思います。
しかし、日本の少年愛は、古来、身分の上のものが身分の下の少年を愛するという図式の中で成立していました。

身分制度の中で忘れられていた少年たち

そのため、身分制度の中で、貧困など様々な事情を抱えた少年が人身売買などで悲惨な性的暴行を受けていたことも忘れてはいけないと思います。
少年愛に関して行われていた法規制も、そのほとんどは、少年を保護するためのものではなく、風俗を乱さないようにするためのものでしかありませんでした。

現代に入り、子どもの視点に立った法規制が進められたことは大きく評価すべきだと思います。

偏見により今だに被害を訴えられない少年もいる

ただ、今でも、被害を受けた少年たちは、偏見の中で、自らの被害を訴えることができずにいる場合があります。

2011年11月に放送されたNHKの福祉番組「ハートをつなごう」では、男性の性被害についての特集が行われ、幼い頃に男性から性暴力を受けた4人の男性が出演し、今も残る心の傷について語っていました。

その中で、性被害を受けた少年は、少女に比べて被害を訴えることは少ないという話がありました。そこには、自分が同性愛者と思われることへの恐怖があるとのことでした。

少年愛者への抑圧と苦しみ

また、大正期からの異性愛中心主義と、少年愛を病理とみなす傾向は、自身の生まれながらの性癖を必死で抑える少年愛者たちに対し、必要以上の抑圧を与えているようにも思います。
小児性愛者=性犯罪者という図式は、必ずしも成立するものではありません。

私は子どもは絶対に大人が守るべき存在だと思っていますし、決して小児性愛について「権利を求める」「理解しろ」というのではありませんが、頭ごなしの社会の偏見が、自身の性嗜好に悩む人たちの相談できる場所を奪ってしまっているように思います。

性というのは、話題にするのがはばかれるものではありますが、「食」「睡眠」と並ぶ根源的な欲求です。ここを抑えられるというのは、とても苦しいものです。
お金で解決できない、話もできない、非実在の少年を対象とした楽しみも規制される、となっては、どうしたらいいのでしょう。

少年たちを性被害から守るために

行き過ぎた性描写を快く思えないのは分かりますが、私は、創作物の規制というのは、「子どもの人権を守る」という大きな目的からは、ずれたものだと思っています。
そこには、そんなものを楽しむのは「変態」「気持ち悪い」という意識があると思います。

そういう簡単な図式が、何とか自分を抑えようとしている小児愛者を追い詰め、少年の被害者をも苦しめているのではないでしょうか。

一度、当然と思っている価値観がいつ、どこからもたらされたものなのか見直し、小児性愛に対する頭ごなしの偏見を取り払うことは、決して子どもたちを守るために不必要なことではないのでは、と思ってこれまで少年愛の歴史をまとめてみました。

 

ここまで読んでいただき、ありがとうございました。

 

【※古い著作が多いのですが、今まで脚注に出せなかった参考文献は、下記のとおりです。】
・里見弴「君と私」(里見弴『里見弴全集 第一巻』筑摩書房、昭和52年)
・長谷川興茂・月川和雄編『南方熊楠男色談義―岩田準一往復書簡』八坂書房、1991年
中山研一『刑事法研究 第五巻 わいせつ罪の可罰性―刑法175条をめぐる問題―』成文堂、1994年
伊藤文學『薔薇ひらく日を 「薔薇族」と共に歩んだ30年』河出書房新社、2001年
ヤコブ・ビリング著、中田和子訳『児童性愛者 ペドファイル解放出版社、2004年
伊藤文學『「薔薇族」の人びと―その素顔と舞台裏』河出書房新社、2006年
・パメラ・シュルツ著、颯田あきら訳『9人の児童性虐待者』牧野出版、2006年
下川耿史性風俗史年表 昭和戦後編』河出書房新社、2007年
下川耿史性風俗史年表 明治編』河出書房新社、2008年
下川耿史性風俗史年表 大正・昭和編(戦前)』、2009年
・ロバート・オールドリッチ編、田中英史田口孝夫訳『同性愛の歴史』東洋書林、2009年
・香月真理子『欲望のゆくえ 子どもを性の対象とする人たち』朝日新聞出版、2009年
・風間孝・河口和也『同性愛と異性愛岩波新書、2010年
・竜超編『薔薇族 400号』、2011年

 

 

*1:園田寿『解説児童買春・児童ポルノ処罰法』日本評論社、1999年

*2:日本子どもを守る会編『1999年版 子ども白書』、1999年

*3:リチャード・B・ガードナー著、宮地尚子ほか訳『少年への性的虐待 男性被害者の心的外傷と精神分析治療』作品社、2005年

刑法の制定と虐待という認識の登場【少年愛の歴史~文化から虐待への認識転換~⑬】

前回までで、大正時代までの少年愛について書いてきました。
そして、時代は昭和に入り、暗い戦争の時代が始まります。
戦争は、多くの孤児を生みました。そのことにより、戦後、児童福祉が充実されていき、やがて「虐待」という言葉が登場します。
そして、少年愛は「性虐待」や「犯罪」と結びついていくようになります。
ここからは、法律の話を主に、戦後から現在までの少年愛規制について書いていきたいと思います。

明治期における現行刑法の成立

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 旧刑法制定に尽力したボアソナードWikipediaより)

まず、現行刑法について書いておきます。
現在の刑法は、1907年(明治40年)に制定されたものに改正が加えられていったものです。

少年を性的暴行から保護しようという積極的な動きは、江戸時代までの法律から窺うことはできませんでした。しかし、明治期に入り、少年の保護という問題が表面化してきたことは、前回までの記事で書きました。
ここでもう一度、明治期に戻り、鶏姦罪以降の少年愛に関する法規制を見ておこうと思います。
【※旧刑法以前の改定律令における鶏姦罪については、こちら過去記事で触れています↓】

bisyounenlove.hatenablog.jp

旧刑法の制定

西洋の法律を規範にした法律整備を進めていた明治政府は、1880年明治13年)7月17日、初めて西洋の法を参考にした刑法を公布しました。これが旧刑法と呼ばれるものです。
お雇い外国人であるフランス人ボアソナードと日本人編纂委員の鶴田皓らを中心に、フランス法典を主な参考としたこの法は、1882年(明治15年)1月1日から施行されました。

改定律令から旧刑法に移行した際、鶏姦罪は、法で定めずとも世間によって罰を受けるというボアソナードの不文律の提案によって廃止されたそうです。*1
以下、旧刑法における少年への暴行に用いられる条文です。*2

第346条 

十二歳ニ満サル男女ニ対シ猥褻ノ所行ヲ為シ又は十二歳以上ノ男女ニ対シ暴行脅迫ヲ以テ猥褻ノ所行ヲ為シタル者ハ一月以上一年以下ノ重禁固ニ処シ二円以上二十円以下ノ罰金ヲ附加ス

 

第347条

十二歳ニ満サル男女ニ対シ暴行脅迫ヲ以テ猥褻ノ所行ヲ為シタル者ハ二月以上二年以下重禁固ニ処シ四円以上四十円以下ノ罰金ヲ附加ス 


これに対し、12歳以上の婦女に対しては「強姦」という言葉が使われているのが、下記の条文から分かります。 

第348条

十二歳以上ノ婦女を強姦シタル者は軽懲役ニ処ス薬酒等ヲ用ヒ人ヲ昏睡セシメ又ハ精神ヲ錯乱セシメテ姦淫シタル者ハ強姦ヲ以テ論ス

 

この旧刑法から、以前の鶏姦罪では男性に対しても使われていた「強姦」という言葉は女子に対して使われるものとなり、男子に対する暴行に関しては「猥褻」という言葉が適用されるようになっていることが分かります。

行刑法の制定

そして、1907年(明治40年)に改正が行われ、現行刑法が成立します。以下、制定時の少年への暴行に対する条文です。
【※法務省「性犯罪の法定刑に関する改正経過等」より↓】http://www.moj.go.jp/content/001137764.pdf 

第176条 強制猥褻

十三歳以上ノ男女ニ対シ暴行又ハ脅迫ヲ以テ猥褻ノ行為ヲ為シタル者ハ六月以上七年以下ノ懲役ニ処ス十三歳ニ満タサル男女ニ対シ猥褻ノ行為ヲ為シタル者亦同シ

 

第177条 強姦

暴行又ハ脅迫ヲ以テ十三歳以上ノ婦女ヲ姦淫シタル者ハ強姦ノ罪ト為シ二年以上ノ有期懲役ニ処ス十三歳ニ満タサル婦女ヲ姦淫シタル者亦同シ

 

このように、法令を見ると、明治に至って初めて、少年は性的暴行からの保護の対象となったと分かります。しかし、それと同時に、西洋的価値観の導入よって、肉体関係を伴わない少年愛に対しても批判が生じていったことは、今日に至る同性愛や少年愛への偏見を生み出すことにもなったのではないでしょうか。

【※大正期の西洋医学による少年愛の見方については、こちらの記事で紹介しています↓】

bisyounenlove.hatenablog.jp

2021年現在の刑法条文

なお、現在はさらに改正が加えられ、下記のような条文になっています

刑法 | e-Gov法令検索

第176条 (強制わいせつ)

十三歳以上の者に対し、暴行又は脅迫を用いてわいせつな行為をした者は、六月以上十年以下の懲役に処する。十三歳未満の者に対し、わいせつな行為をした者も、同様とする。

 

 
第177条 (強制性交等)
十三歳以上の者に対し、暴行又は脅迫を用いて性交、こう門性交又は口くう性交(以下「性交等」という。)をした者は、強制性交等の罪とし、五年以上の有期懲役に処する。十三歳未満の者に対し、性交等をした者も、同様とする。

 

これは、明治以来110年ぶりの大幅な改正で、2017年の改正当時に大きな話題になりました。現在は、「強姦」ではなく「強制性交等」という言葉が用いられ、少年への暴行も対象になっています。
【※NHKハートネットの記事が詳しいのでリンクを張っておきます。↓】

www.nhk.or.jp

第二次世界大戦前後の児童福祉政策

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厚木飛行場に到着したマッカーサーら(Wikipediaより)

ここから、話は第二次世界大戦後の児童福祉政策になります。
少年愛の歴史を振り返ってみたとき、戦後から始まった児童福祉政策は、少年愛に対しても様々な法規制を生み出した点で、大きな意味を持ちます。

戦前における旧・児童虐待防止法の制定

戦前の日本に児童福祉という概念がまったくなかったかというと、そうではありません。産業の発達に伴って児童労働が問題となり、児童労働を禁止する工場法が制定され、1933年(昭和8年)には、児童虐待防止法が制定されています。
しかし、それは第7条で軽業や曲馬が禁止されているように、「児童労働に対する保護規定としての位置を持ったもの」にとどまったものでした。*3

戦災孤児問題と児童福祉法の制定

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広島市への原子爆弾投下により生じた巨大なキノコ雲(Wipediaより)

第二次世界大戦は、本土への爆撃が甚大な被害を出し、戦後の戦災孤児の数は全国で12万3511人にも上っています*4。孤児を保護できる施設は少なく、彼らの多くは浮浪児となり、社会問題となっていました。
そのため、GHQは「一週間以内に浮浪児をいなくせよ」などという強引な命令を下しています。いわゆる「刈り込み」と称される浮浪児の強制収容から、日本の児童福祉政策は始まりました。

そして1947年(昭和22年)、児童福祉法が制定され、戦前からの旧・児童虐待防止法は廃止されます。これにより、児童養護施設児童相談所などの施設が整えられ始めました。しかし、戦後復興が落ち着くまで、児童福祉の進展はしばらく停滞します。

高度経済成長期における児童遺棄対策

再び児童の福祉が論じられるのは、高度経済成長の頃です。
コインロッカーベイビーに代表される捨て子問題が社会問題化し、虐待への関心が高まりました。しかし、当時は、「児童虐待の問題は、子供の遺棄や殺害といった問題と連続線上でとらえられていた」ものに過ぎませんでした。*5

例えば、1971年の『子ども白書』では、「ここ二、三年、新聞の全国版で報道されただけでも、一年間に約百件の「子ども殺し」が発生しています。」と、子どもへの虐待について言及した記述がありますが、虐待として扱われているものは、遺棄や殺害のみでした。*6

そして、虐待問題はやがて非行やいじめ、不登校といった子どもの問題の中で隠れてしまいました。

虐待という認識の登場

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そんな中、ついに1989年、国連で「児童の権利条約」が採択(日本は1994年に批准)されます。
この第19条で暴力・育児放棄・搾取などの虐待から子どもを保護することが国際条約で初めて盛り込まれると、民間の中から児童への虐待を防止しようという動きが生じます。

1990年に全国で初めて児童虐待防止を目的とした民間団体である児童虐待防止協会が設立され、翌年には子どもの虐待防止センター、1994年には日本子どもの虐待防止研究会が発足しています。

現行の児童虐待防止法の制定

そして、2000年、児童虐待の防止等に関する法律(児童虐待防止法)が成立します。このなかで初めて、「身体的虐待」「心理的虐待」「ネグレクト(育児放棄)」「性的虐待という、児童虐待の定義が法定されました。*7

性的虐待は、「児童にわいせつな行為をすること又は児童をしてわいせつな行為をさせること」児童虐待防止法第2条)と定義されました。
【※厚生労働省HPより↓】
児童虐待の防止等に関する法律(平成十二年法律第八十二号)|厚生労働省 (mhlw.go.jp)

性的虐待の認識について

性的虐待」という言葉は、2000年以前にも使われていましたが、1988年まで児童相談所で行われていた調査では「親による近親相姦、又は親に代わる保護者による性的暴行」という定義が用いられており*8、姦淫行為を伴うものと狭く解され、被害児童も10歳以上の女児に限られる傾向がありました。
しかし、この法律で児童とは18歳未満の者と定められているため、少年も性的虐待の被害者として法的に認められることになったのです。

平安時代から続いていた少年愛。今まで書いてきたように、その歴史の中には、理不尽な暴力にされている子どもたちがいました。
ここにきてやっと、少年に対する暴行は「虐待」と認識されるようになりました。本当に最近のことですね。

*1:林弘正『児童虐待 その現状と刑事法的介入』改訂版、成文堂、2006年

*2:我妻栄編『旧法令集有斐閣、昭和43年

*3:児童福祉法研究会『児童福祉法成立資料集成 上巻』ドメス出版、昭和53年、p37

*4:昭和23年厚生省児童局調査結果www16.plala.or.jp/senso-koji/kousei2.html

*5:小林登監修、川崎二三彦・増沢高編『いっしょに考える子ども虐待』明石書店、2008年

*6:日本子どもを守る会編『1971年版 子ども白書』、1971年

*7:川崎二三彦『児童虐待―現場からの提言』岩波新書、2006年

*8:岩井宜子編『児童虐待防止法―わが国の法的課題と各国の対策』尚学社、2002年、p59

大正~昭和初期における男色批判の高まり【少年愛の歴史~文化から虐待への認識転換~⑫】

明治時代、「戦う気分」とともに「硬派」の男子学生たちの間で行われていた少年愛
しかし、大正期に入ると、男色を声高に賛美する雰囲気は廃れ、性欲学ブームによって、「変態性欲」とみなされるようになりました。
今回は、大正~昭和初期の男色批判の高まりについて書いていきます。

 

明治から大正期を学生として過ごした稲垣足穂は、明治初期のような熱狂的な少年愛について、『宮武外骨の美少年論』の中で「この雰囲気は明治初年から半世紀の間続いてきて、大正期に入るとともに漸く影が薄れた。」(前掲書p259)と述べています。
前川氏は、その要因として、ジャーナリズムによる男色のバッシングと、新しい結婚観の登場という二つを挙げています。
ここでは、前川氏の研究を参考にさせていただきながら、この二つの要因について検討したいと思います。

西洋医学と法規定に基づく少年愛批判

1900年(明治33年)の小学校令によって、義務就学規定が明確化されるとともに、公立小学校において原則として授業料が廃止され義務教育の四年制が確立します。これにより、その次の段階である中学に進学する人数は急増しました。

【※学校教育については、文部科学省HPを参照してます↓】

学制百年史:文部科学省

悪習と捉えられるようになった「過度の友情」

それとともに、学生の言動に注目が集まり、しばしば「学生の風紀問題」が報道で取り上げられるようになります。
取り上げられた学生の行為には、暴行争闘、情死、借金、遊郭通いなどがありました。そして、男色も風紀問題の一つに挙げられたそうです(前掲書:前川)。

1909年(明治42年)発行の『冒険世界』に掲載された、河岡潮風による「学生の暗面に蟠れる男色の一大悪風を痛罵す」では、男色は「全国の中学生に蟠れる慢性病」とされ、堕落学生たちが学生の本分である勉強をおろそかにして、悪習に耽っている問題点を指摘しています。*1

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1940年(昭和15年)頃の大学生の様子
(大室貞一郎『学生の生態』日本評論社昭和15年、「友人」の章より)

また、これは昭和14年のものですが、第一高等学校の生徒主事である佐藤徳二は、

 

『過度の友情』の醸す害悪も案外に大きい。一面から見れば、寄宿舎は友情の氾濫する場所である。通学生には味ひ得ない思い遣りの情が友人との間に行き通ふ。特に運動部の室とか修養の会の室とかに、それが顕著に認められる。然るにの友情の横流する処、お互いに怠慢を奨励助長し、時間と感情を浪費しあひ、やり切れなくなって腹のそこでは憎み合ふ、といふ不幸な事にもなる。

 

と述べ、「過度の友情」が学業の支障になるとして批判しています。*2

「変態性欲」という病

そして、もうひとつ、少年愛批判の大きな根拠となったものが、少年愛を犯罪につながる「変態性欲」であり「病」として考える西洋医学です。

先に挙げた河岡氏の論文では、西洋医学者の研究例を出し、「奴隷制がなくなったように、男色をなくす事も可能だ」と述べています。

大正期には性欲学ブームが生じ、様々な医学書が発行されました。
その一つである『変態性欲論』では、少年愛にあたる症状と行為が、第一編顛倒的同性間性欲、第三編準色情狂の中の「年齢の顛倒」で取上げられ、「変態性欲」であり、「治療すべきもの」として捉えられています。*3

第一編では、西洋のクラフト・エービングらの研究結果を取上げながら、「同性間性欲」は健康の害、脳の発育停止、無気力、風俗の壊乱、伝染病をもたらすものだとして、

 

其の精神と、肉体とに与ふる悪影響の、甚だ大なるものあるは、正当なる性欲の比にあらずして、甚だ恐るべき害あるを思はざるべからず。(p297)

 

と述べられています。

また、犯罪の事例として、四十六歳の男性が十二歳の少年に対して行った鶏姦(アナル・セックス)が取上げられており、「極力これを排斥に努めて社会より一掃」することが識者たちの勤めだとしています。

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男色の広まる以前の、古代の勇者として取り上げられたヤマトタケル
月岡芳年画「芳年武者无類」、wikipediaより)

そして、硬派の学生たちの男色賛美の理由の一つであった、雄々しい行為として男色を捉える考えにも触れ、ヤマトタケル神武天皇の例を挙げながら、

 

我が国の武勇が、男色より発達したるものにあらざるは、男色の未だ盛んに行なわれざりし時代より、国民は既に大和魂に富みて武勇を轟かしたるもの少なからず事実に徴して、知るを得べし(p320)

 

としてその考えを否定しました。
そして、肉体関係を伴わない精神的な関係も、ソクラテスプラトンの例を挙げながら、そういった賢者であるから欲を制することができたのであり、凡人には難しいことであるため、危ういものであるという見解を示しています。

年上の女性と少年の関係も問題になる

また、「年齢に関する顛倒」のなかでは、同性間の少年愛でなく、年上の女性と年下の少年の間の少年愛も「男女の年齢著しく顛倒して、不釣合いなるものゝ間に起こる性欲」(p621)とし、四十一歳の女教員と十三歳の小学校生との間に生じた関係を事例として取上げています。

大正デモクラシーによる新しい結婚観と異性愛主義

男色賛美の風潮が衰えた第二の理由は、大正デモクラシーの中で西洋的の価値観に基づく男女交際と結婚についての論議が起こり、男女の結婚こそが幸福であるという考えがジャーナリズムによって唱えられ、男子学生の間にも浸透していったことだと前川氏は指摘しています。

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wikipediaよりお借りしたモダン・ガールの写真、大正12年
男女同権論の台頭と発展

日露戦争後から、女子の進学率も向上し、1905年頃から『中央公論』で男女学生の交際について議論されるようになりました。

また、明治政府による殖産興業による資本主義と産業の発達に伴い、職業婦人が増加したことなどを受け、明治時代末期から男女同権論が台頭します。
福沢諭吉らにより一夫一婦制が提唱され、明治末期からは巌本喜治による『女学雑誌』(1885年)、徳富蘇峰による『家庭雑誌』(1892年)、堺利彦による『家庭雑誌』(1903年)など、妻の役割と家庭のありかたについて扱った雑誌が発行されました(以上、黒川みどり)。*4

「良妻賢母」「家庭」という言葉が登場したのもこの頃であり、異性愛主義が台頭します(前掲書:前川)。

そして、1915年(大正4年)に発行された『男女対等論』では、

 

男子は婦人なるが故に、婦人を除外して一団を成したのではないが、知識的淘汰の自然律に従ったのである。他の事情が同一になれば、男子は必ず性の自然の引力に従ひ、婦人の伴侶たるを好むのである。

 

と述べてられています。*5
この記述からも、異性愛を「自然なもの」と考える風潮が出てきたと理解できるでと思います。

こうした中で、男女の交際は決して硬派の学生の捉えるような軟弱なものではなくなり、幸福な家庭と結び付く神聖なものとなっていったのではないでしょうか。

 文豪の小説に見る大正時代の少年愛

このように、異性愛のみを正しいものと考える風潮により、硬派の理論は全く通用しなくなり、少年愛は日陰へと追いやられていきました。

しかし、明治のようにおおっぴらな賛美と行為が行なわれなくなっても、少年愛は大正時代から世界大戦の勃発までしばしば学生たちの間、また一般の少年たちの間でも行なわれていたことは、里見弴川端康成江戸川乱歩など、当時を生きていた人々の少年時代を思い返す文書の中で確認できます。
私、川端康成作品が大好きなのですが、その中でも忘れられない『少年』をご紹介します。この作品の情交の描写、プラトニックなのがやたらエロいのです・・・。

川端康成の『少年』

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wikipediaから、鎌倉の川端康成

五十歳の川端康成は、『少年』という作品のなかで、旧制中学校(当時川端は十九歳だったという)のころの清野少年(仮名)との愛を思い返しています。*6
その中で紹介されている川端自身の作文には、次のような部分があります。

 

 お前の指を、手を、腕を、胸を、頬を、瞼を、舌を、歯を、脚を愛着した。
 僕はお前を恋していた。お前も僕を恋してゐたと言ってよい。(p282)

 

しかしまた、下級生を漁る上級生の世界の底まで入りたくなかつた、あるいは入り得なかつた僕は、僕達の世界での最大限度までお前の肉体をたのしみたく、無意識のうちにいろいろと新しい方法を発見した。ああ、この僕の新しい方法を、なんと自然に無邪気に受け入れてくれたお前だったらう。(p283)

 
このような情交を行っていながらも、「お前が女だったらと、切なく思つたのは幾度だったらう。」(p284)という言葉からは、やはり川端には異性愛を自然とする考えが根底にあったように思います。

大正~昭和初期まとめ

この時代に起こった男色批判ですが、成人男性同士の「同性愛」も、暴行をともなうことがある「年下の少年への愛(少年愛)」も、一緒に害悪とみなしてしまっています。現在からすると考えられない言葉も書物で使用されていますが、少年愛規制に関する大きな転換点となった時代だったと思います。

ともかく、当時の少年愛に関していうと、大正~昭和初期には、男らしさの象徴ではなく、女性との恋愛の代替の愛、もしくは女性との恋愛の前の一過性の愛というものになっていたのではないでしょうか。

この頃の少年愛作品については、いろいろあって楽しいのですが、長くなるので、また別の機会にまとめて紹介してみたいと思います(∩´∀`)∩

*1:河岡潮風「学生の暗面に蟠れる男色の一大悪風を痛罵す」(礫川全次編『歴史民俗学資料叢書第二期 男色の民俗学批評社、2003年)

*2:佐藤得二「寄宿舎」(河合栄治郎編『学生と学園』日本評論社昭和14年、pp194-195)

*3:羽太鋭治・澤田順次郎『変態性欲論』春陽堂大正4年

*4:黒川みどり「男性の自己変革への模索」(阿部恒久・大日方純夫・天野雅子編『男たちの近代』日本経済評論社、2006年)

*5: 麻生正蔵・大多和たけ子『男女対等論』南北社、大正4年、p341

*6:川端康成「少年」(川端康成川端康成全集9 舞姫』新潮社、昭和44年)

明治の学生にみる少年愛と鶏姦罪【少年愛の歴史~文化から虐待への認識転換~⑪】

江戸時代に繁栄を迎えた少年愛。しかし、明治時代に入ると、風俗・制度・文化として存在していた少年愛は、病理として捉えられ、「犯罪」になっていきます。
今回からは、明治時代以降の少年愛について、法律制定の話なども交えながら書いていきます。

薩摩藩土佐藩などで存在した少年愛

日本の中心であった江戸では、江戸時代後期から少年愛風俗が衰退していきました。
その一方、地方、特に武士人口が多い薩摩藩土佐藩といったところでは、少年愛の風俗が明治時代の初期頃まで続いていました。

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薩摩藩郷中教育 

薩摩藩は、領内を百以上の「郷(ごう)」に分けており、郷ごとに郷中(ごじゅう)」という青年組織が存在していました。
そこでは、「稚児(ちご)」とよばれる6歳~14・15歳までの元服前の少年に対し、14・5歳~24・5歳の「二才(にせ)」と呼ばれる結婚前の青年が、武士としての教育を施していました。
なんだか、古代のギリシャの教育制度に似ていますね。

稚児はしばしば女装を施され、他の郷の青年との交流を禁じられていたようです。
そして、そのような中で、稚児と二才との間には親密な関係が育まれていきました(前掲書:氏家)。

ちなみに、私、知覧特攻記念館に行った際、武家屋敷も見てきました。
幕末の雰囲気が感じられてとても素晴らしかったので、鹿児島に行かれた際は、ぜひ訪れてみてください(*'▽')

【知覧武家屋敷庭園の公式HPです↓】

chiran-bukeyashiki.com

土佐藩で黙認されていた少年への性的暴行

また、宮武外骨によれば、土佐藩では、男色を拒む少年がいると、男たちは少年の家に押しかけての性的暴行も行ったが、親兄弟はこれを習俗として考え、黙認していたといいます。*1

やがて、明治維新の際、これら男色の傾向の強い藩が、中央政治に進出したことにより、再び中央の舞台で少年愛が行われ、全国的に伝播していきます(前掲書:稲垣)。

明治の男子学生たちにおける少年愛

明治時代に入り、四民平等によって封建的身分制度が崩壊します。
武士という存在が消滅した後、少年愛の担い手となったのは、学生たちでした。

教育制度の整備

明治政府は、欧米諸国の制度を参照し、教育制度の整備を進めていきます。
1872年(明治5年)に学制が公布され、1886年明治19年)には学校令が公布されます。そして、エリートを養成する高等中学校(いわゆるナンバースクールで、1894年に高等学校と改称)が設立されました。

ちなみに、以前石川県金沢市に行った際、明治に建てられた高等中学校の校舎を利用した、四高記念館に行ったことがあります。当時の学生たちの生活を知れて、面白かったです。

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石川県金沢市の四高記念館

【公式HPはこちら↓】

www.pref.ishikawa.jp

下級生を見定める男子学生たち

これら中学校・高等学校では寄宿舎があり、多くの学生が入寮していました。
当時の各高等学校の生活を詳細に述べた『学会之先蹤 青年修学者指針』には、第五高等学校(熊本県)の寄宿舎において故参者(上級生)が新入生をどのように見ているかということについて、以下のような記述があります。*2

 

「オイ君、少しは好いのを見たか」

「ウヽ、素敵な美少年が来てるんだよ」

 

この記述には続きがあり、「如何に九州が士道の本場なればとて、此等の淡活を文字通りに解するのは聊か皮相の観と云はざるを得ない」とし、実は「気風の真髄を継承するに足る後進者を求めて居る」(p462)と述べています。

しかし、この会話は、男子だけの寄宿生活の中で美少年が注目されていたことが窺える記述ではないでしょうか。

ヰタ・セクスアリス』に見られる少年愛

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また、森鴎外の自伝的小説である『ヰタ・セクスアリス』では、学生は九州出身者を中心として少年を愛好する「硬派」と、女色に耽る「軟派」に分かれており、数では軟派が勝るものの「硬派たるが学生の本色で、軟派たるは多少影護(うしろめた)い處があるやうに見えてゐた。」と述べています。*3

また、この作品中には、主人公の金井君が十一歳のときの描写で、

 

学校には寄宿舎がある。授業が済んでから、寄ってみた。ここで始めて男色といふことを聞いた。(中略)その少年といふ詞が、男色の受身といふ意味に用いられているのも、僕の為には新知識であつた。僕に帰り掛けに寄って行けと云った男も、僕を少年視していたのである。

  

というものがあります(pp110-111)。
金井君は、その男と仲間の上級生に暴行を受けそうになったことを父に告げるのですが、「うむ。そんな奴がおる。これからは気を附けと行かん。」(p112)という返事が返ってくるだけでした。
この作品からは、硬派の上級生がおおっぴらに下級生を性的対象としていた事実を知ることができると思います。

『当世書生堅気』の男色賛美

また、前川氏が引用している坪内逍遥の『当世書生堅気』では、

 

「女色に溺れるくらいなら、男色に溺れるほうがまだ良いわい。第一、男どうしなら、お互いに智力を交換することもできるしなあ。しかも男色には、将来の望みを語りあって、自分たちの大志を養成するという利点だってあるんだぞ。」

 

という男色賛美が行なわれているそうです。*4

時代を覆った「戦う気分」

氏家氏は、このように男色が盛んに行なわれ、賛美された理由について、日清日露戦争を背景にした「戦う気分」(前掲書:氏家p80)というものを挙げています。

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東郷平八郎

1879年(明治12年)の就学率は男子58.2%、女子22.6%であり、教場も男女は分離されていました。1883年(明治16年)の文部省による「小学作法書」では男女の分を踏まえた教育の心得が示されています。

そのような中で、男子は幼い頃から性差を当然とする思考に慣らされていました。
そして、日清戦争(1894~1895)の頃には、軍歌が唱歌を媒介に教育の中にも浸透し、日露戦争(1904~1905)の際には「尚武は実に日本固有の性情なり」と武士道精神が鼓舞されました。
小学校は、しばしば戦場の幻灯会や戦死者の公葬会場にもなり、軍人という「男らしい」男性像が男子のなかに形成されていきました。*5

そのような中で、雄々しさを学生たちが求め、武士の時代の名残を感じながら、少年愛は賛美されていたのではないでしょうか。

男色行為を禁止する法律の登場

そして、このような学生の男色の傾向は、男色行為を規制する近代最初の法を生み出しています。
林氏の研究によると、明治時代初期には、清律令を参考にした仮刑律、1870年(明治3年)からは新津綱領が刑事事件に関する典拠とされていました。
仮刑律の強姦罪、新津綱領の犯姦律では、十二歳以下の幼女に関しては和姦も強姦とみなし、強姦の際と同じ刑罰が与えられています。
しかし、男子への暴行には触れられていません。

「鶏姦罪」という罪

男子への暴行は、1873年明治6年)に公布された「改定律令」に至って初めて、法によって禁じられます。以下が、「鶏姦罪」の条文です(前掲書:林p185)。

 

改定律令第266条

凡鶏姦スル者ハ、各懲役九十日、華士族ハ、破レン恥を以テ論ス。其姦セラルルノ幼童、十五歳以下ノ者ハ坐セス。若シ強姦スル者ハ懲役十年、未タ成ラサル者ハ、一等を減ス。

 

これは、学生による男色が頻繁に行われていた白川県(現熊本県)からの要望により制定された法で(前掲書:林)、当時の学生間の男色の流行を物語っています。

霞信彦氏の調査によると、処罰件数は1870年から旧刑法の制定により鶏姦罪が廃止されるまでの1881年の間に、処罰件数は年間1~6件ほどで、その大半は懲役100日以下の刑であったそうです(前掲書:前川)。

ただ、このような法律が制定されたものの、男色を賛美する声は依然存在しており、この法はそれほど厳格なものではなかったように思います。

しかし、前川直哉氏は、鶏姦罪が規定される際に左院二等書記官高鋭一が提出した意見書を紹介し、この規定が法令として定着し、さしたる抵抗もなく受入れられたのは、西洋の文明国を見習い、鶏姦を法律で禁止するべきだという価値観が明治の知識人にあったからだと指摘しています(前掲書:前川)。

急激な欧米化の中で規定されたこの法令によって、以前はそれほど罪として認識されていなかった男色という言葉が、精神的なものではなく行為と結びつき、野蛮な行為や犯罪として人々の間に認識され始めていった(前掲書:前川)ことを考えると、鶏姦規定は少年愛の法規制史のうえで、大きな転換点となる規制であったと言ってよいでしょう。

 

*1:稲垣足穂宮武外骨の美少年論」(萩原幸子編『稲垣足穂全集 第十三巻 タルホ拾遺』筑摩書房、2001年)

*2:河野亀治編『学会之先蹤 青年修学者指針』、博文館、明治39年、p462

*3:森鴎外「イタ・セクスアリス」(森林太郎『鴎外全集 第五巻』岩波書店、昭和47年、p114)

*4:前川直哉『男の絆―明治の学生からボーイズ・ラブまで』筑摩書房、2011年、p33

*5:荒川章二「兵士と教師と生徒」(阿部恒久・大日方純夫・天野正子編『男たちの近代』日本経済評論社、2006年

江戸時代における少年愛の規制【少年愛の歴史~文化から虐待への認識転換~⑩】

江戸時代に繁栄を迎えた少年愛。しかし、様々な規制によって衰退していったことを前回書きました。
今回は、江戸時代における、少年愛の法規制のことを少し詳しく書いておきたいと思います。

江戸時代の人々は、少年愛に寛容だったと言われます。事実、身分・性別を問わず、多くの人が美少年たちに夢中になっていたのは、書いてきたとおりです。

しかし、この時代は同時に、少年愛に関する規制を頻繁に行っていた時代でもありました。

売春をする野郎・陰間への規制

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明暦の禁令

歌舞伎役者の少年に関わる禁令には、1655年(明暦元年)に出された「狂言盡之者屋敷向より被呼候時之事」というものがあります。
そこには、次のように書かれています。

「跡々より御法度之通狂言盡御大名屋敷方江御呼候共祇公仕間敷候」
「一両人御屋敷方より御呼候共罷越島原之真似仕ましき事」
(菊池駿助編『徳川禁令考第五帙』吉川弘文社、昭和7年、p693より)


これは、大名の屋敷に招かれた場合でも、そこで芸を行ったり、売春行為を行ったりすることを禁じたものでした。

元禄の禁令

1689年(元禄2年)には、「かぶき子供其外之者在々町々ニ有之ハ可申来事」という禁令が出されています。

 

「堺町葺屋町木挽町之外方々之芝居江出候野郎浪人野郎抱置候もの有之由相聞候今日中ニ委細書付町年寄方江可申来候」
(菊池駿助編『徳川禁令考第五帙』吉川弘文社、昭和7年、p694より)

 

この禁令では、野郎や陰間などの少年が商売のために湯島天神など営業を定められた場所以外の町に出かける際、委細書を提出することを義務付けています。

宝永の禁令

また、1706年(宝永3年)には、「女おとり子狂言芝居の野郎浪人野郎等彌以所々徘徊致間敷旨町触」という禁令が出されます。

 

狂言芝居之野郎浪人野郎彌以堅外江あるかせ申間敷候」
  (菊池駿助編『徳川禁令考第五帙』吉川弘文社、昭和7年、p696より)

 

ここでは、役者たちがむやみに出歩くことを禁じています。

3つの禁令から考える、陰間の地位

ここで注目しておかなければならないのは、陰間たちの身分です。
江戸時代には、士農工商身分制度が厳密に定められていました。

この3つの禁令から考えると、陰間の中には、もともと良民であった少年がいたものの、実際には賎民としてしか扱われていなかったと考えよいように思います。

これらの禁令では、受身となる少年に対しての規制を明示しています。
現在は、「児童買春」を罰する法律があります。
しかし、江戸時代に出されたこれらの禁令は、「買われる」少年たちを規制した法律です。

「大人が子どもを買うなよ」

ではなく、

「男娼は決められた場所から外に出るなよ」「大名たちに呼ばれても身体を売るなよ」

とだけ言っています。
つまり、少年たちを「買う」人間を規制してはいないのです。

このことから、これらの禁令は、少年を保護することを目的としたものではなく、風紀を乱さないためのものに過ぎなかったといってよいと思います。

一般の若衆へに対する規制

では、陰間と同じく少年愛の対象となった、一般の少年たち・地若衆に関する規制は行われていたのでしょうか。

女児への暴行規制は存在している

林弘正氏の研究によると、江戸時代には子どもに対する性的暴行に関する裁判の例は、いくつか存在し、

 

・1672年(寛文12年)・・・九歳の幼女に暴行を行った男性が死罪
・1718年(享保3年)・・・九歳の少女に暴行したものが遠島
・1791年(寛政3年)・・・十一歳の少女に暴行したものが遠島(後に特赦)

 

になっています。*1

また、1743年(寛保3)には、御定書百箇条の「密通御仕置き之事」に、

 

「一 幼女江不義いたし怪我為致候もの 遠島」

 

という条項が追加されました(前掲書:林)。

しかし、これが女児のみを対象としていることから、一般の少年である地若衆が暴行を受けたとしても、罰則は適用されなかったのではないかな、と思っています。
もし、男児が暴行を受けたときの判例があったら、ご指摘ください。

武士に対する規制

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氏家氏によると、武士の間で制度として行なわれていた少年愛に関しても、江戸時代中期の17世紀ごろから各藩で規制が行われるようになったといいます。
例えば、岡山藩では、1654年(承応3年)に、小姓たちに男色を絶つように誓約書を提出するように義務付けているそうです。
1658年(万治元年)には、衆道の縺れで同藩の子弟が衝突して死者が出たことを機に厳罰が科せられるようになり、ある武士は小姓に関係を持ちかけたことで切腹を命じられているといいます(前掲書:氏家)。

ただ、この武士の少年愛に関する規制は、藩の統率と主従関係の混乱を防ぐことを主な目的とした規制だったといえるでしょう。

※武士たちの少年愛については、よければこちらをご覧ください。

bisyounenlove.hatenablog.jp

江戸時代の少年愛規制について思うこと

少年愛の歴史を振り返ったとき、江戸時代は、少年愛が風俗・文化として存在し、まさに繁栄の時代といっていいと思います。
それと同時に、江戸時代以前にはなかった、効力の強い法規制が行われた時代でもありました。
しかし、この規制は、まだ子どもの保護よりも、風俗や制度の乱れを防ぐという目的が強かったように感じられます。

*1:林弘正『児童虐待 その現状と刑事法的介入』改訂版、成文堂、2006年、p168

美少年を誘惑する女たち【少年愛の歴史~文化から虐待への認識転換~⑨】

ここまで、男性と少年の関係を語ってきました。
しかし、江戸時代になると、美少年を誘惑する、あるいは買う女たちが登場します。
今回は、江戸時代における女性と美少年の関係を書いていきます! 

陰間を買い、丁稚を誘惑する江戸の女性たち

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年上の女性に誘惑される若衆。鈴木春信の絵、綺麗ですよね。
田中優子白倉敬彦『江戸女の色と恋 若衆好み』、学習研究社、2002年、p59より)

野郎・陰間・飛子、これら売色の少年を買う人々はどのような人々だったのでしょうか。それは、僧侶や大名経済の発展により財力をつけた町民、そして後家や奥女中などの女性でした(前掲書:阿部、岩田、三橋)。

江戸時代の少年愛について注目すべきは、それ以前の年上の男性と年下の少年という男色の関係に加え、年上の女性と年下の少年という関係が登場したことだと思います。

春画などでは、女性が、陰間などの男娼に限らず、丁稚などの地若衆とも積極的に性的な関わりを持っている姿を見ることができます。

また、川柳にも、

「小侍侠なはしたにかぶせられ」
芳町は和尚をおぶい後家を抱き」

などというものがあります。
一句目の小侍とは前髪姿の少年のことで、「かぶせる」とは女が男を犯すことです。
二句目は、芳町の陰間が僧侶を主とした客には男色で女役として対応し、後家などの女性客には男として対応していることを表しています(前掲書:山本p59、p137)。
このような川柳からも、江戸の女性たちの、積極的な少年愛の様子を窺うことができるでしょう。

色を売る少年たちは、当初は野郎や若衆姿のものが多かったのですが、しだいに振袖などを纏った、女性と区別のできない姿になっていきます。
春画などを見ると、見慣れないと、女性と陰間はなかなか区別できるものではありません。女性にも男性にも持て囃された女装姿の陰間は、男性とも女性とも範疇を異にするジェンダーとして扱われていたのかもしれません。

陰間人気の衰退 

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天保の改革を行った水野忠邦wikipediaから)

歌舞伎の成立とともに、人気を集めた陰間。
しかし、江戸時代中期の享保の頃から、男色の衰退とともに、陰間の人気も衰え始めていきます(前掲書:岩田、氏家)。

この理由について、氏家氏は、

・武士が戦う存在から役人に落ち着くことで、制度としての少年愛が失われたこと
・武士の早婚化により自由な恋愛期間が短くなったこと
・倹約を統制する相次ぐ風俗規制

 

という三つの要因を指摘しています(前掲書:氏家)。

相次ぐ飢饉などで幕府の財政が疲弊し、各地での暴動や外国船の到来などで幕府の権威が揺らぎ始めると、幕府は財政立て直しと幕府の権威回復のために様々な改革を実行ました。

そして、家慶の時代に水野忠邦によって行われた天保の改革(1841~1843)では、陰間茶屋は全面的に禁止され、ほぼ消滅します(前掲書:三橋)。
上野三十六坊のある湯島周辺にだけ、わずかに陰間は残りましたが、『鹿塚談』によると、江戸末期の陰間の数は芳町で14、5人、湯島でも10人ほどに激減しているといいます。*1

しかし、男色衰退の後も、女性たちは歌舞伎人気を支えました。
少年愛に基づく女性たちの歌舞伎趣味がなければ、歌舞伎はここまで発展することはなかったかもしれませんね。

 

❤鈴木春信の若衆は綺麗❤
美人画で有名な鈴木春信ですが、実は春画もたくさん描いています。
春画展などで見かけた方もいらっしゃるかもしれません。
私、線の細い鈴木春信の絵が、浮世絵の中でもとても好きだったので、初めて春信の春画を見たときは、はえー!春信が局部描いてる!!」って衝撃でした。
女性の絵も非常に綺麗なのですが、前髪姿の美少年もとても美しいです。
こちらの海外ブログでは、アメリカに所蔵されている春信の浮世絵が見れますので、リンク張っておきます。

ja.ukiyo-e.org

 
【なお、春画は『別冊太陽』というムック本が、分かりやすくておすすめです↓】

*1:獨笑居士「男娼」(礫川全次編『歴史民俗学資料叢書第二期 男色の民俗学批評社、2003年)

ビョルン・アンドレセンのドキュメンタリー映画『The Most Beautiful Boy In The World』(2021)、日本公開してほしい

今日、YouTubeを見ていたら、おすすめに下の動画が出てきました。
映画『ベニスに死す』で美少年・タージオを演じた、ビョルン・アンドレセンドキュメンタリー映画予告です。


THE MOST BEAUTIFUL BOY IN THE WORLD - Official Trailer

私、情けないことに英語が分かりません(T_T)
でも、分からない部分は、Google翻訳など使って調べてみましたので、その内容を紹介いたします。

映画『The Most Beautiful Boy In The World』について

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映画ポスター(wikipediaから)

こちらの映画、今年2021年1月29日に、アメリカのサンダンス映画祭で公開されました。
タイトルの「世界で一番美しい少年」というのは、ヴィスコンティ監督が映画『ベニスに死す』公開時にビョルンをそう呼んだことから取られたそうです。

しかし、この映画による「美少年」という名声は、公開当時まだ16歳だった少年には、あまりに重すぎました。
これは、この映画の出演によって人生を変えられてしまった、ビョルン・アンドレセンという一人の男性のドキュメンタリーです。

【3/8追記 詳しくは、こちらのELLE様の記事でも紹介されています。】

news.yahoo.co.jp

予告を見て思ったこと

予告は、ヴィスコンティ監督がタージオ役の少年を選んでいるところから始まります。
15歳の背の高い少年・ビョルンに目を定めたヴィスコンティ「上を脱いで裸になって」と指示。「なんですって?」と戸惑うビョルン。

『ベニスに死す』は、少年が性的な目で見られる危険性のある映画

『ベニスに死す』は、初老の作曲家・アッシェンバッハが少年・タージオの美に魅入られる話です。原作のトーマス・マンによる小説も、ヴィスコンティの映画も、あくまで「美」を描いた名作です。
しかし、見方を変えれば、これはペドフィリア(幼児性愛)」「少年を対象にした同性愛」を描いた作品でもあります。

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この映画で、少年タージオにはほとんど台詞がありません。
初老の男に対し、流し目を使って誘惑するような行動をするのみ。
タージオの人間性は描かれていないのです。
「美」とともに、一部には「性」を感じさせる対象であるだけで。

映画では、完璧な美を具現化したタージオを演じるのに、生身の少年が必要です。
ある意味で生贄となったのがビョルン・アンドレセンという、まだ15歳の少年(公開時は16歳)でした。

※『ベニスに死す』については、過去に記事を書きましたので、ご興味のある方は、よければご覧ください。

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うつ病アルコール依存症に悩まされたビョルン

当然、作品を離れたビョルンに対しても、性的な目が行くことがあったと思います。
彼は、一人の人間としてではなく、性的対象として見られる「物(sex object)」のようだったと言っています。

日本でスターとして熱狂的に迎えられた様子も記録されていますが、普通の少年だった彼には異常な事態だったでしょう。

彼は、家族関係のこともあり、うつ病アルコール依存症にも悩まされたそうです。

ぜひ日本でも公開してほしい

様々なものを失い、50年を経た今も、自分と向き合っているビョルンの姿を描いたこのドキュメンタリー。

幼い少年少女アイドルをもてはやす日本

日本って、ポルノも「JCもの」「JKもの」があふれていますし、10代の少年少女を知らないうちに性的な目で見る風潮が強いように感じます。
幼い子役や10代のアイドルを異常にもてはやし、肌を出した写真集が売られたりもしています。

しかし、その一方、その子たちが成長すれば「劣化」などと中傷するコメントもネットでよく見られます。
彼らは物ではなく、傷つきやすい生身の人間だということを忘れてはいけないと思います。

「芸術」と「ポルノ」の境目は非常に曖昧だと思う

少年少女の一時の美というのは、本当に魅力的だと私も思います。
映画『ベニスに死す』は、本当に素晴らしくて、何回も観ました。
少年少女の一時を映像に残すことで、その美は永遠となります。

しかし、「芸術」と「ポルノ」あるいは「性虐待」の境目は本当に曖昧なものだと思います。
例えば、フランス映画『ヴィオレッタ』では母によってセンセーショナルな写真集を出版された少女の、狂ってしまった運命が描かれています。
こちらも、プライムビデオで観れます。   
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芸術作品に幼い少年少女を使うというのは、とらえる人間によって意味が違ってくる、非常に危険なものだと思います。

『The Most Beautiful Boy In The World』の本編を観ていないので、ずれたこと言っていたらすみません💦
そういう啓発の意味でも、この作品の日本公開を待っています。

 

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