BLと少年愛の研究室

ビョルン・アンドレセンのドキュメンタリー映画『The Most Beautiful Boy In The World』(2021)、日本公開してほしい

今日、YouTubeを見ていたら、おすすめに下の動画が出てきました。
映画『ベニスに死す』で美少年・タージオを演じた、ビョルン・アンドレセンドキュメンタリー映画予告です。


THE MOST BEAUTIFUL BOY IN THE WORLD - Official Trailer

私、情けないことに英語が分かりません(T_T)
でも、分からない部分は、Google翻訳など使って調べてみましたので、その内容を紹介いたします。

映画『The Most Beautiful Boy In The World』について

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映画ポスター(wikipediaから)

こちらの映画、今年2021年1月29日に、アメリカのサンダンス映画祭で公開されました。
タイトルの「世界で一番美しい少年」というのは、ヴィスコンティ監督が映画『ベニスに死す』公開時にビョルンをそう呼んだことから取られたそうです。

しかし、この映画による「美少年」という名声は、公開当時まだ16歳だった少年には、あまりに重すぎました。
これは、この映画の出演によって人生を変えられてしまった、ビョルン・アンドレセンという一人の男性のドキュメンタリーです。

予告を見て思ったこと

予告は、ヴィスコンティ監督がタージオ役の少年を選んでいるところから始まります。
15歳の背の高い少年・ビョルンに目を定めたヴィスコンティ「上を脱いで裸になって」と指示。「なんですって?」と戸惑うビョルン。

『ベニスに死す』は、少年が性的な目で見られる危険性のある映画

『ベニスに死す』は、初老の作曲家・アッシェンバッハが少年・タージオの美に魅入られる話です。原作のトーマス・マンによる小説も、ヴィスコンティの映画も、あくまで「美」を描いた名作です。
しかし、見方を変えれば、これはペドフィリア(幼児性愛)」「少年を対象にした同性愛」を描いた作品でもあります。

この映画で、少年タージオにはほとんど台詞がありません。
初老の男に対し、流し目を使って誘惑するような行動をするのみ。
タージオの人間性は描かれていないのです。
「美」とともに、一部には「性」を感じさせる対象であるだけで。

映画では、完璧な美を具現化したタージオを演じるのに、生身の少年が必要です。
ある意味で生贄となったのがビョルン・アンドレセンという、まだ15歳の少年(公開時は16歳)でした。

※『ベニスに死す』については、過去に記事を書きましたので、ご興味のある方は、よければご覧ください。

bisyounenlove.hatenablog.jp

うつ病アルコール依存症に悩まされたビョルン

当然、作品を離れたビョルンに対しても、性的な目が行くことがあったと思います。
彼は、一人の人間としてではなく、性的対象として見られる「物(sex object)」のようだったと言っています。

日本でスターとして熱狂的に迎えられた様子も記録されていますが、普通の少年だった彼には異常な事態だったでしょう。

彼は、うつ病アルコール依存症にも悩まされました。(家族関係の影響もあったようです。)

ぜひ日本でも公開してほしい

様々なものを失い、50年を経た今も、自分と向き合っているビョルンの姿を描いたこのドキュメンタリー。

幼い少年少女アイドルをもてはやす日本

日本って、ポルノも「JCもの」「JKもの」があふれていますし、10代の少年少女を知らないうちに性的な目で見る風潮が強いように感じます。
幼い子役や10代のアイドルを異常にもてはやし、肌を出した写真集が売られたりもしています。

しかし、その一方、その子たちが成長すれば「劣化」などと中傷するコメントもネットでよく見られます。
彼らは物ではなく、傷つきやすい生身の人間だということを忘れてはいけないと思います。

「芸術」と「ポルノ」の境目は非常に曖昧だと思う

少年少女の一時の美というのは、本当に魅力的だと私も思います。
映画『ベニスに死す』は、本当に素晴らしくて、何回も観ました。
少年少女の一時を映像に残すことで、その美は永遠となります。

しかし、「芸術」と「ポルノ」あるいは「性虐待」の境目は本当に曖昧なものだと思います。
例えば、フランス映画『ヴィオレッタ』では母によってセンセーショナルな写真集を出版された少女の、狂ってしまった運命が描かれています。

             

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芸術作品に幼い少年少女を使うというのは、とらえる人間によって意味が違ってくる、非常に危険なものだと思います。

『The Most Beautiful Boy In The World』の本編を観ていないので、ずれたこと言っていたらすみません💦
そういう啓発の意味でも、この作品の日本公開を待っています。

 

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少年愛の歴史~文化から虐待への認識転換~⑧江戸の男娼・陰間

ご訪問いただき、ありがとうございます。
今回は、江戸の男娼たち・陰間(かげま)について書いていきます!

少年売春システムの確立

前回、歌舞伎の成立について書きましたが、少年売春のシステムが確立するのも、この頃からのようです。
しかし、少年の売春はすでに鎌倉時代の頃から存在していました。

江戸時代以前の少年売春

南方熊楠によると、稚児と僧侶の歌ばかりを集めた『続門葉和歌集』という鎌倉時代の歌集の序で、「何ぞ況んや、木幡里の駅馬を辞し、迷いて童郎の墾志を尋ね、栗陬野(くるすの)の児店を過り」という記述があり、美童を誘拐し、僧のために売春を行なっていた店が江戸以前から存在していたといいます。*1

また、柴山肇氏も、室町時代の僧道興の『廻国記』の中に、「児わらは数輩あつまりて、色々曲を盡し侍りき。宴会終て藤乙丸といへる少人、休所へ礼に来たりて、しばらく物語し侍りて」という記述があることから、やはり南方と同様、既に少年の売春が存在していたと考察しています。*2

江戸時代に売春システムが組織化

江戸時代になると、売春はより組織化されていきます。
ただし、若衆歌舞伎の頃には、井原西鶴による『男色大鑑』巻五「命乞ひは三津寺の八幡」に、「都には舞台子のあそびは稀に、花代も一部づつになべて極め」「茶屋へは銀弐両程の集礼なれば、芝居の果より夜の明る迄我物にしてさばきぬ。」(前掲書:宗政ほか校注p467)などとあるように、花代は金一分ほどでそれほど高くはなく、時間に関しても規則はなかったことが分かります。

しかし、野郎歌舞伎の頃になると、役者として舞台を踏みながら色を売る野郎(舞台子、色子)、芸を学びながらも舞台は殆ど踏まずに売色を行う陰間(陰子、若衆、子供)、地方で色を売る飛子など、様々な形式をとって少年たちが売春を行うようになります(前掲書:阿部)。

値段に関しては、1658年(万治元)に京都の妙心寺の慧心禅師の三百回忌の際に、僧たちが陰間を買い漁った頃から銀一枚(約40匁)ほどに跳ね上がったといいます(前掲書:宗政ほか校注)。
坊さんたち、いつも性欲が旺盛すぎるだろ・・・!!

陰間は、陰間茶屋、子供茶屋、子供呼出料理茶屋というところで酒席に侍り、客の要望に応じて春を鬻ぎました。
平賀源内による『男色細見 三つ朝』によれば、1768年(明和5)年の江戸では、日本橋堺町、木挽町芳町湯島天神町、麹町など9ヶ所55軒の茶屋があり、232人の陰間が存在していたといいます。*3

私は、湯島などに行く際、ここに春を売る美少年たちがいたんだな、と妄想しながら歩いていました。頭の中は江戸に行っていました。

陰間たちの生活 

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陰間茶屋の様子
(『第二期近世文学資料類従 西鶴編7 男色大鑑』p335より)
陰間になった少年たち

ところで、陰間となる少年はどのような者だったのでしょうか。
阿部氏は、「江戸の商売にして、破産の不幸に罹りたるものゝ子弟、若しは浪人等の生計に窮したる貧家の子弟、及び男娼の目的をもてもらはれたる養子、又は京都大阪辺の流落したる良民の子弟を多しとす。」(前掲書:阿部p353)と述べています。

また、客をとる年齢は「十四五歳から十六七歳まてを度とし」(前掲書:阿部p357)と阿部氏は述べていますが、中には、それより前の少年もおり、田中氏・白倉氏は「十歳から十七歳くらい」(前掲書:田中・白石p18)としています。

以前、室町時代の少年たちが人身売買の対象となっていたことを書きましたが、江戸時代でもはやり、身体を売るのは貧しい少年たちでした。
室町時代に性的搾取の対象となった少年たちについては、よければこちらの過去記事をご覧ください。

bisyounenlove.hatenablog.jp

少年たちの悲惨な生活

彼らの生活は遊女と同じような生活で、悲惨だったようです。
『男色大鑑』には、

なほ勤め子のかなしきは限りもなし。きのふは田舎侍のかたむくろなる人に、その気に入相ごろより夜ふくるまで無理酒いたみ、今日はまた七八人の伊勢講仲間として買われ、床入りはひそかに籤どりしらるるなど、その中に好ける客もあるに、籤のならひとていや風なる親仁目に取り当てられ、かしらからしなだれ、髪のそこぬるをもかまはず、爪のながき手を打ち懸けられ、楊枝つかはぬ口を近く寄せられ、(中略)これみなわが身の徳にはならず、親方のためばかりにして、一しおうたてかりき

 

とあります(前掲書:宗政ほか校注pp536-537)。
『男色大鑑』では、男娼の陰間と客が心を通わせる話もあるものの、多くの陰間たちは、好きでもない相手に身体を売っていたというのが分かります。お酒も無理して飲まなければいけないし、口の臭いおっさんの客ともキスしなくてはいけない、辛い仕事だったというのが窺えます。

さらに、阿部氏によると、損失を招くことがあると、「倒しまに梁上に懸けられて、或いは鞭撻せられ、或いは尻頭を刺さるゝ等」(前掲書:阿部p356)というように酷い虐待を受けていたそうです。

時代劇では、遊女となった女性の辛さが描かれることが多いですが、女性だけでなく、少年たちも貧困の中で身体を売っていたという、悲しい現実があったのを忘れてはいけないと思います。

 

前回、衆道の記事でスターがちょっと増えてて、とっても嬉しかったです!!
こんな超マイナー部門を黙々と書いているブログにもかかわらず、訪問してくださる皆様、本当にありがとうございます( ;∀;)
次回は、少年たちを買っていた女性たちについて書いてみます。

*1:南方熊楠「鮮人の男色」(南方熊楠南方熊楠全集3』平凡社、1971年)

*2:柴山肇『江戸男色考 悪所篇』批評社、1992年、p60

*3:三橋順子『女装と日本人』、講談社、2008年、p111

少年愛の歴史~文化から虐待への認識転換~⑦歌舞伎の成立と衆道の繁栄

ここまで、古代から江戸時代前までの少年愛について書いてみました。
そして、遂に江戸時代!それは、日本における少年愛の全盛期。
衆道(しゅどう)」とも呼ばれ、歌舞伎の成立とともに繁栄を迎えます。
美少年による売春が堂々と行われていた、すげえ時代です。
書いててものすごく楽しいので、ひたすら語っていきます。

江戸時代における少年愛の繁栄

歌舞伎の成立 

氏家氏は、『武士道とエロス』のなかで、以下のように述べています(前掲書:氏家p31)。

戦国時代から江戸初期にかけて、男どうしの性愛関係は、衆道(しゅどう)あるいは義兄弟の契りと呼ばれ、とりわけ武士の世界で流行していた。それは逸脱した性関係として異常視されるどころか、逆に武士道の華とさえ賛美されていた。(※下線部は筆者強調)

 

武士による統治が確立した江戸時代は、小姓を対象とする少年愛が大名たちの間で当然のように存在していました。
『土芥寇讎記(どかいこうしゅうき)』という全国の大名の家族や系譜について記した書では、「男色ヲ好ム」「美童ヲ愛ス」といった評がみられる者が243名中29名いるそうです。*1また、三代将軍家光も、小姓に舞を舞わせて楽しんでいました(前掲書:武井)。

そうした美少年を持て囃す雰囲気の中で、陰間(かげま)と呼ばれる少年たちの売春という、新しい風俗が誕生します。この時代の美少年による売春は、歌舞伎と密接に結びついていました。ここで、歌舞伎の歴史について触れておきます。

阿国歌舞伎

                                 Okuni kabuki byobu-zu cropped and enhanced

           wikipediaからお借りした出雲のお国)

平安時代から室町時代にかけて庶民の間で持て囃された田楽や猿楽は、男性によって演じられていたものでしたが、室町時代末期になると、美貌の女性を中心とした男女混合型の興行が行われるようになります。

そして、そのような中でお国と呼ばれる女性が登場します。
彼女は、戦国時代から江戸時代に移行するなかで、主家を失った歌舞伎者(かぶきもの)と呼ばれる浪人たちの風俗を興行に取り入れ、一世を風靡しました。
その様子は、京都国立博物館所蔵の「阿国歌舞伎図」で知ることができます。

「かぶき踊」という名称が用いられるようになったのは、彼女の率いる芸団が最初である可能性が高く、一般的に彼女が歌舞伎の創始者だと言われています。
しかし、彼女の芸能が遊女によって真似られると、風紀を乱すとして1629年(寛永6)に女歌舞伎は禁止されてしまいます(以上、前掲書:服部)。

若衆歌舞伎

その頃から勢いを増したのが、女歌舞伎と並行して行われていた若衆歌舞伎(わかしゅかぶき)という、元服前の前髪姿の少年による舞でした(前掲書:武井)。

武井氏によると、若衆歌舞伎は衆道流行の中で「男色の対象として観賞される芸能」であったそうです。そのため、物語性をほとんど持たず、容色を強調する舞踏としての要素が強く、性質としては遊女歌舞伎と代わることなく、幕府は1652年(承応元)に三都での若衆歌舞伎を禁止します。*2

野郎歌舞伎

しかし、熱狂的な人気を得ていた歌舞伎への熱望は庶民の間から高まり、役者の前髪を落とすということを条件に歌舞伎再開の許可が下ります。
この頃から、容色を見せる舞踏から、物真狂言尽くしという物語性を持った劇へと歌舞伎は大きく変化していきます(前掲書:武井)。
これが野郎歌舞伎(やろうかぶき)です。

ただし、役者を衆道の対象とする傾向はなくなったわけではありません。
彼らは若衆美の象徴であった前髪を剃った部分に紫の縮緬頭巾などを当てるなどの工夫を施し、これが若衆歌舞伎のとき以上に好評を博し、ますます歌舞伎人気は高まっていきました(前掲書:岩田)。

美少年役者への熱狂

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松島半弥の前で小指を切る男
(近世文学書誌研究会編『第二期近世文学資料類従 西鶴編7 男色大鑑』勉誠社、昭和50年、p345より)

井原西鶴による『男色大鑑』では、松嶋半弥という女形に恋し、恋慕の程を示すために突如舞台に上がって小指を切り落とす男が登場します。*3
また、同じく『男色大鑑』には、「根元浮世楊枝(こんぽんうきよようじ)」といって、芝居若衆の定紋を彫った楊枝があり、それを使うものは、「紋楊枝を手にふれて口中磨ける時は、恋の君が美舌をくわゆる心地」(前掲書:宗政ほか校注p546)になったという記述もあります。
爪楊枝で少年の舌を妄想できるって、ぶっ飛んでる・・・。
さらに、『江戸名所記』には、

かの若衆ども髪うつくしく結ひ、うす化粧して、小袖の衣紋じんじやうに着なし、ほそらかなる声にて小歌うたひ、はしがかりに練り出でたるありさま、芝居のやからは、前なるは桃尻になり、後ろなるはのびあがり、桟敷にある方々は耳もとまで口をあき、よだれを流し


という記述があるそうです(前掲書:武井p42)。
美しく着飾った少年役者、よだれが出るほど美しかったんでしょうね。
このような記述からは、当時の歌舞伎役者への異常なほどの熱狂ぶりを知ることができます。

次は、同じく江戸時代の男娼、陰間たちについて書いてみます。

井原西鶴『男色大鑑』はエロい❤

今回登場した井原西鶴作品『男色大鑑』。これは江戸時代のBL本ともいえます。
図書館で初めて読んだとき、もうね、エロ本読んでるみたいでした(爆)
指切るとか、愛が熱いっすね、江戸っ子は。
いろいろなカップルが描かれている短編集で、とても面白いです。
最近知ったのですが、これ、漫画化されているんですね。
Kindleにありましたので、もしご興味ある方は、漫画からお手に取ってみてはいかが
でしょうか。



 
 

*1:服部幸雄・武井協三ほか『岩波講座 歌舞伎・文楽第2巻 歌舞伎の歴史Ⅰ』岩波書店、1997年

*2:若衆歌舞伎御法度の事
一 此度若衆歌舞伎御法度ニ被仰付候ニ付、町中ニ歌舞伎子之様成倅抱置金銀ヲ取公界為致申間致事
(菊池駿助編『徳川禁令考第五』、吉川弘文館昭和7年、p692)

*3:井原西鶴「男色大鑑」(宗政五十緒・松田修・暉峻康隆校注『日本古典文学39 井原西鶴集二』小学館、昭和48年)

少年愛の歴史~文化から虐待への認識転換~⑥階級を越えた少年愛・芸能の少年たち

(三)階級を越えて広まった少年愛

ここまで、寺院と武家少年愛について書いてきました。
今回は、平安時代末期から戦国時代にかけて、僧侶・公家・武士・庶民というあらゆる階級に広まっていた少年愛について書いていきます。

能の前身・猿楽と田楽の少年たち

岩田氏は、「政治が王朝から武家に転じて新政治が根本から民衆的になった結果、従来は殆ど或る階級にのみ限られてあった如き男色風俗が、先ず武家の間に迎えられて盛行し、漸次一般民衆にも波及」(前掲書:岩田p58)した、と述べています。

そうした、庶民を含めた階級に少年愛の対象として持て囃されたものが、猿楽田楽の少年たちです。

・猿楽と田楽とは

「猿楽(さるがく)」は、奈良時代に大陸から伝わった「散楽」が平安時代頃に日本化したもので、「猿楽」もしくは「申楽」と呼ばれるようになったそうです。滑稽な劇を演じることが多かったとか。
「田楽(でんがく)」とは、田植え等の際に行われる芸能から発達したものだそうです。
これらが、へと発展していきます。能の歴史は、能楽協会様のHPに詳しく書かれています。

www.nohgaku.or.jp

・文学の中に見られる当時の熱狂

太平記』巻二十七「田楽事付長講見物ノ事」では、「大樹(たいじゅ)(足利尊氏)是を被興事(きょうぜらるること)又無類(またたぐひなし)。サレバ萬人手足ヲ空ニシテ朝夕是ガタメニ婬費(無駄遣い)ス」*1とあります。
ここでは、貞和五年六月十一日に行われた新座本座の田楽の催しで「粧ヒ盡シタル美麗ノ童八人」(前掲書:後藤・岡見校注p56)の舞が行われたと記されており、絵巻物では、老若男女、貴賤貧富を問わず、あらゆる階層の人々がその舞を楽しんでいる様子を見ることができます。
美しい人間による芸を楽しみ、時にお金もつぎ込む、昔の人も心は一緒ですね(*'▽')

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太平記絵巻』巻二十七より田楽の美少年と見物客。お坊さんもいます。

(宮次男・佐藤和彦編『太平記絵巻』河出書房新社、1992年、p143より)

絶世の美少年・世阿弥の登場と能の大成

能楽を大成した世阿弥も、大和猿楽のなかで芸能経験を積んでいます。
世阿弥が十二歳の年に父・観阿弥が今熊野社で猿楽能を催して以来、観阿弥世阿弥父子は将軍足利義満の庇護下に置かれました。*2
青年の義満は世阿弥に魅了されたようで、「永和四年には義満の祇園会の鉾見物の桟敷に召され、その寵愛ぶりが一部の反感を買った」といいます。*3
また、当時の優れた知識人で、少年の世阿弥藤若の名(綺麗な名前ですよね)を与えた二条良基は、尊勝院へあてた書状の中で

わか芸能は中々申におよはず、鞠連哥なとさえ堪能には、たゝ物にあらす候、なによりも又、かほかたちふり風情ほけほけとして、しかもけなわけに候、かゝる名童候へしともおほえす候(前掲書:福田p34)


と、世阿弥の才能と美貌を絶賛しています。*4
蹴鞠も連歌も得意な美少年・藤若、タイムスリップして見てみたい!
ちなみに、この書状、最後に「この手紙は燃やしてくれ」と書かれています。知識人の二条良基、書状を書いた後、「年甲斐もなく熱中しているのがばれたら恥ずかしい!」とでも思ったんでしょうか・・・(*/∇\*)゙キャッ

義満と良基の少年時代の世阿弥に対する対応には、少年愛の雰囲気を感じることができます。世阿弥二条良基から手厚い教育を受け、それがのちの能の大成に繋がっていきます。このことを考えると、当時の少年愛という文化が、能成立の一要因であったといっていいのではないでしょうか。

ちなみに、世阿弥と一族の盛衰については、杉本苑子先生による『華の碑文』という小説があるので、近いうち読んでみようと思っています。

人身売買の犠牲となった少年たち

しかし、田楽や猿楽に従事する少年たちは、決して世阿弥のように恵まれた少年ばかりではありませんでした。

阿部弘蔵は、『日本奴隷史』の中で、『文安田楽記』の中の文安元年六月に貞常親王が田楽見物の際に福若丸という十七歳の美少年を見初め、夜に召し入れて賞翫したという記述や、『二水記』の中の永正14年4月に宮千代丸という少年が禁中に上がり、親王らが彼の「色に淫せし」という記述を引用し、「此等田楽の中、年少なる役者ともには、男倡を営ましめたるのみならず、此の徒輩一身の売買をも兼業せる者多々これあり」と述べています。*5

そして、「続武家閑談に、長井甲斐守と日比野下野守との二人が美濃に来たりし江州の俳工より娼童の美なるを選び購ひし由を記したり。こも田楽の族にして、その老輩なる俳工即ち一種の人買に買収せられたる哀れむへき奴隷ならん」と指摘しているのです(阿部pp158-159)。

つまり、田楽や猿楽の少年たちの中には、性の対象として人身売買の犠牲となっていた者が存在していたことが明らかになっているのです。

・能に見る人身売買

人身売買の対象となるのは、田楽や猿楽の少年たちだけではありませんでした。
能の中には隅田川』『桜川』『三井寺』『自然居士』など、子どもの人身売買を扱った作品が存在していることから、貧困のなかにある一般の少年たちの人身売買が行われていた当時の世情を知ることができます。

そして、当時の少年愛が流行していた雰囲気から考えると、こうした一般の少年のなかでも美しい少年は、性の対象となっていたのではないでしょうか。

こうした連想は江戸時代にもあったようで、人買いに売られる途中で死んでしまった『隅田川』の梅若という少年について、「梅若はたとへ生きてもけつをされ・命なりけり」という川柳があります。*6
岩田氏は、少年の人身売買を扱った能『桜川』『三井寺』で僧侶が関係していることを指摘し、「之から考えると寺院が男色の目的を以て美少年を購入した数は決して少なくはなかったであろう。」と述べています(前掲書:岩田p139)。

・禁令が出されるも、効果はあまりなかった

こうした人身売買については、鎌倉時代から、禁令がいくつも発布され、烙印を押すなどの処罰を与えるという刑も定められました。*7しかし、1239年(延応元)4月には、「飢饉の年、人身売買の特例」として「凡人倫売事、禁制殊重、然而飢饉之年計者、被免許儀歟」(桑原p88)という、飢饉の年には人身売買を許可する法令が出ています

このような特例が出されたことに対し、岩田氏は、「その結果は危殆の時期が過ぎても、猶公然と行われ、のみならず人を勾引する者、売買を業とする者さえ漸く多からんとして、其の後は度々の禁令も効がなく、遂には時俗の如く見放される迄に至った。」と述べています(前掲書:岩田p134)。

また、阿部氏も、1254年(建長6)には再び「質人事一向可停止之」という人身売買を一切禁止する法令が出されていることを指摘しながらも、1399年(応永6)の質入り証文や1473年(文明5)の証文から人身売買が行われていたことが証明できるとし、「この停止は、全く一時に止まりししか、或は其の功なくして消滅したるものと看做すより外なし」と述べています(前掲書:阿部p222)。

人身売買の禁令が効力を発しなかった理由については岩田の指摘する特例の他にも、当時は皇族、公家、僧侶、武士といった禁制の及びがたい身分の人々も少年の人身売買に関わっていたことも理由として挙げられるかもしれません。

江戸時代以前の少年愛まとめ

以上、江戸時代以前の三つの少年愛の形態を検討する限り、少年愛は寺社を始めとして、武士や民衆の間にも風俗として確立されていたことが分かりました。その風俗は、戦術として機能し、また稚児物語や能楽などの芸術を生む要因となった一方で、人身売買の犠牲となった悲惨な境遇の少年を生みだしました。
しかし、そうした悪習に対する規制はほとんど整備されておらず、性暴力の対象となる少年の保護は、江戸時代以前にはほとんど機能していなかったことが理解できます。

 

❤能のすすめ❤
世阿弥の生涯、今回、能のことに触れましたが、私は、能がとっても好きです。
かつては、「は?能?眠そう」と思っていました。
でも、学生時代にすごい熱量で能の面白さを教えてくださる先生に出会い、どんなもんかと行ってみたら、見事その世界に魅了されてしまいました。
そこは、もう現実ではなく幽玄の世界
業平が、六条の御息所が、敦盛が、天女たちが生きてるんです。
そして、今回触れた悲劇の少年たちも。
表情がないことを「能面のよう」といいますが、とんでもないです。
面は、様々な表情を伝えてくれます。
ただ、面のせいで台詞がこもって聞こえるし、台詞が昔の言葉なので、予習が必要かも。私は、毎回「謡曲集」と呼ばれる台本を持って聞きに行っています。
このサイト的には、人身売買によって子どもと別れた母が狂気に陥って彷徨う『桜川』隅田川がおすすめです。もう一回、謡曲を読み直し、詳しく紹介記事を書いてみたいです。
 

*1:後藤丹治・岡見正雄校注『日本古典文学大系36 太平記三』岩波書店、昭和37年、p55

*2:西野春雄・羽田昶編『新版 能・狂言事典』平凡社、2011年、「世阿弥」の項参照

*3:福田秀一「世阿弥の幼少時代を示す良基の書状」(日本文学研究資料刊行会編『日本文学研究資料叢書 能・狂言』有精堂、昭和56年、p33)

*4:この書状が良基の真作か偽作化には問題があるが、福田秀一氏は「これを良基の書状と信じてよいと思つてゐる」(福田p35)と述べており、ここでは良基のものとした。

*5:阿部弘蔵『日本奴隷史』成光館出版部、昭和3年、p158

*6:山本成之助『川柳・性風俗事典』牧野出版、昭和57年、p193

*7:桑原洋子編『日本社会福祉法制史年表』永田文昌堂、1988年

少年愛の歴史~文化から虐待への認識転換~⑤武士の少年愛・小姓

前回、寺院の少年愛に触れました。今回は、武士の少年愛について書きます。

(二)武士の少年愛―小姓(こしょう)

平安時代後期から、貴族の権力が失墜して武士が台頭すると、少年愛は寺院だけでなく、武家社会にも見られるようになります。武家の男色は、「戦場武士の稚児扈従、大名の小姓などという形で盛んに持て囃され」ました(前掲書:岩田p58)。

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武士の側で刀を持つ小姓 
五味文彦監修『歴史文化遺産 戦国大名の遺宝』山川出版社、2015年、p121
「調馬厩馬図屏風」部分より)

小姓とは、武将たちの身の回りの世話をする十八歳くらいまでの少年たちであり、彼らを対象とした性愛は、やはり少年愛と言い換えることができるでしょう。
しかし、武家社会の少年愛は、少年を女性のように美麗に着飾り愛玩していた寺院のそれとは、性質を異にしています。

武家の制度・戦術としての少年愛

武士の男色については、氏家幹人氏の研究に詳しく述べられています。
氏家氏によれば、江戸時代の儒者大田錦城は「『梧窓漫筆』で「戦国ノ時ニハ男色盛ニ行ハレ、孌童ノ中ヨリ大剛ノ勇士多ク出ツ」と述べ、明智左馬介(秀光。明智光秀の小姓)や直江山城守(兼続。上杉景勝の近習)の名を挙げている」*1といいます。

つまり、小姓は男色の対象になっていたが、そこから多くの勇ましい武将が生まれていた、ということですね。

他にもこうした主君と小姓として有名なものには、大内義隆陶晴賢織田信長前田利家・森乱丸、武田信玄と高坂弾庄、豊臣秀次不破万作などが挙げられます(前掲書:稲垣、岩田、氏家、羽太・澤田)。

また、氏家氏は、『春日山日記』の中に、越中神保氏が十六歳の小姓高木左伝次という美少年と男色関係にあり、左伝次に上杉謙信の暗殺を持ちかもちかけたという話があることから、「この話がどれほど史実なのか定かではないが、いずれにしろ同様の戦術が当時常套句的に用いられていたのは確からしい」とも述べています(前掲書:氏家p92)。

武家社会の少年愛は、制度であり、また戦術として機能していました。
寺院の少年愛のように異性愛の変形でなく、男対男の関係として、性欲を満たすこと以上に、将来家臣となる少年たちに幼いうちから忠誠を誓わせる側面があったといえるのではないでしょうか。

このような小姓制度は、江戸時代が終わるまで武家社会の中で機能しますが、江戸時代中期ごろから、主従関係を守るために様々な規制が行われるようになっています(前掲書:氏家)。この規制については、また後程検討することにします。

こんな側面を知ると、時代劇を観るとき、武将の後ろにひっそりと控えている、刀をもった美少年たちにも目が行くようになるかも・・・(´∀`*)ウフフ
戦国時代なんて、命かけてるからね。主君と一緒に死ぬこともあるし、絆の強さが違うぜ!!

❤武士BLのおすすめ作品❤ 

★『妖雲 大内太平記』(小川良著)
先に述べた大内義隆陶晴賢の男色を題材にした時代小説です。
元服した小姓は、今までのように主人と男色関係は持たなくなっていたようですが、陶晴賢は主人・大内への愛を断ち切れなかった、という設定になっています。
もう、すっごく面白くておすすめです。非常に濃厚。徹夜で読みました。
図書館とかにあるかと思うので、ご興味のある方はぜひ。

★大竹直子先生作品
武将BLをたくさん描いていらっしゃる漫画家の先生です。
二・二六事件を扱った作品から入ったのですが、それも素晴らしかった!)
どの作品も絵が非常に美麗で、世界観に引き込まれます( *´艸`)
Amazonでも作品が買えますので、ぜひ一度お手に取ってみてください。
豊臣秀次と美少年小姓・不破万作のお話『恋一夜』と、宇喜多直家とその小姓を題材にしたお話『阿修羅の契』のリンク、張っておきます。



 

*1:氏家幹人『武士道とエロス』講談社現代新書、1995年、p91

【BL漫画】日高ショーコ『憂鬱な朝』感想~二人の明るい未来に乾杯!!~

今日、『憂鬱な朝』(全8巻)を読み終わりました!
感激です!!!こんな素晴らしい作品に出会えてよかった!!生きててよかった!!
感激したまま、感想を書いてみます。 

 

             

                   (Amazonより)

❤『憂鬱な朝』のカップル❤
久世暁人(年下・主人)× 桂木智之(年上・従者)

 

物語は、両親を失って10歳で子爵となった暁人と、その教育係となった若き家令・桂木智之の出会いから始まります。

この1巻を読んだときは、多分出版されたばっかりのことで、私が学生のときでした。
ただ、その頃は内容が難しく感じたし、主人公二人がピリピリしていたので、続きを読もうと思えなかったんですよね。
私、イチャラブが好きなので。

でも、久々に商業BLを読もうと思っておすすめをネット検索していたら、ほとんどのサイトにこの作品が上がっているではないですか。
そこで、10年ぶりにこの作品を手に取った次第です。

いやあ、3日かけて一気に読んでしまいました。
昔はピリピリした二人だと思っていましたが、めちゃイチャラブでした!!
時代設定が明治で、華族の家を舞台としているので、最初は学生の頃と同じく難しく感じました。
しかし、昔と比べて、辛抱強くなっていたのでしょう。
「分家??爵位の順番??株??」
知らないことがたくさん出てきましたが、ゆっくり、頭を使って、たまに当時のことを調べながら読んでいくうち、もう、ぐいぐいその世界観に引き込まれていきました。

繊細で美しい絵と多彩なファッション

まず、絵がとても綺麗なんですよ。
毎回、カラーの扉絵の美しさにため息がでました。
そして、明治の子爵の家なので、いろいろな服装が出てきて素敵でした。
学生服、着物、礼服、シャツにサスペンダー、(ふんどし)・・・。
これらを二人の美形、華やかな学生子爵・久世と、怜悧な美貌家令・桂木が着こなしていて、もう、すべて色気満載です!!

一途な攻めと、深まっていく二人の関係

最初のうちは駆け引きとして始まった二人の関係。
はじめは久世のことを憎んですらいた桂木ですが、だんだんと一途な久世に心を開いていきます。
私、「一目ぼれ」という単純な惚れ方もいいのですが、長い間一緒に過ごし、いいところも悪いところも知って、いつの間にか好きになっていた、という恋愛が好きです。

この作品では、その様子がとても丁寧に描かれています。
なぜ朝が憂鬱なのか、その理由が途中で分かりますが、それを知って最終巻を読むと、感激します。

イチャラブなシーンも、1巻につき必ず入れてくださっていて、毎回ドキドキします。
そのシーンに、桂木の心理的な変化がよく表れていて素敵なんです。
やっぱり、思いあった人と身体を重ねるのが一番です。
にしても、日高ショーコ先生、乱れた髪の描き方がとても色気あります!!
頭脳明晰でいつもピシッと髪を整えている桂木が、髪を乱して喘ぐ姿は様子はたまりません。

恋愛だけにとどまらないストーリー

この作品、そんな二人の恋愛も素敵なのですが、何より、ストーリーがすごい。
お家問題、事業の駆け引きなども描くことで、二人が互いを尊重しながら成長していく過程と、これから手を取り合って生きていくであろう「将来」まで、しっかり感じさせてくれます。
どうしてお互いじゃないとダメなのか、すごく説得力があります。
本当に、二人が生きています。
こんなに「人生」を感じられるBLがあるなんて。
これを描き切る日高ショーコ先生、マジすごいです。神です!!

脇役の魅力と大団円

二人の話ばかりになりましたが、脇役がまた皆魅力的です。
久世の友人でよき理解者の総一郎とその父、森山侯爵夫人、桂木の兄、久世の父、みんなその人生をしっかり生きてるんですよ。
私は、何気に桂木の兄・隆之が好きです。
みんな幸せになってよかったよ(涙)

当時のファッション、邸宅から海岸などの風景描写まで筆致がとても美しく、人物が全て生きている。
まるで明治にタイムスリップしたかのように引き込まれる、最高の作品だと思いました!!
とてもおすすめです。買ってみて本当によかった!!
日高先生の他の作品も読んでみます。
AmazonKindleでも読めるので、リンクを張っておきます。

 

少年愛の歴史~文化から虐待への認識転換~④寺院の少年愛・稚児と喝食

前回、平安時代中期から末期には、僧侶・貴族たちの間で少年愛の風習が広まっていたことを書きました。
今回からは、平安時代末期から少年の売春が行われる江戸時代までの少年愛の形態を三つに分類し、詳しく書いていきます。
最初は、「稚児(ちご)」「喝食(かつじき)」についてです。 

(一)寺院の少年愛―稚児と喝食

寺院の貴族化と稚児

平安時代初期の806年、最澄によってはじめて年分度者を賜り、天台宗が開かれました。空海による真言宗がこれを賜るのはだいぶ遅れ、835年に至って正式に開宗します。*1

9世紀は、律令国家から貴族制へと社会が変化していく時代です。
そのような社会の変容の中で、これら平安仏教は、怨霊思想や貴族同士の勢力争いなどによる貴族社会の不安に加持祈祷で応え、「つねに貴族に結び、またみずから貴族化することにおいて発展」(前掲書:家永ほかp237)していきます。

こうした貴族的性格の寺院に華を添えていたのが、「稚児」と呼ばれる少年たちです。
稚児とは、寺院で僧たちの身の回りの世話をするなどして奉仕する少年のことです。
その中で、容色の優れたものは僧侶の男色の相手となっていたことが当時の文献から窺うことができます(前掲書:岩田)。

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演奏する稚児たちとその様子を眺める僧侶。めちゃ見てる。
小松茂美編『当麻曼荼羅縁起 稚児観音縁起』中央公論社、昭和54年、pp54-55より)
・『古今著聞集』に見られる稚児の嫉妬

例えば、『古今著聞集』巻八「仁和寺の童千手、参川の事」では、稚児と法親王の情交が語られています。
鳥羽院の第五皇子覚性法親王の寵童である千手が、新しい稚児参川に寵愛が移ったことを今様に託して嘆くと、法親王は「たへかねさせ給ひて、千手をいだかせ給ひて御寝所に入御ありけり」(前掲書:永積・島田校注p256)とあるのです。
この話では、稚児と僧侶の間に性関係があると考えてよいでしょう。

醍醐寺の『稚児之草紙』に見られる僧侶と稚児の性行為

また、京都醍醐寺に所蔵されている『稚児之草紙』は、積極的に献身する稚児と僧侶の男色の一部始終が描かれています(前掲書:稲垣、岩田)。
これ、性行為の準備から本番までの様子が色々描かれていて、すごいんですよね。
画像を載せたいのですが、勝手に掲載はできませんので、割愛させていただきます。
「稚児之草紙」で検索してくると出てきます。
2015年の「春画展」で公開されたようなのですが、行きそびれちゃったんですよ。
醍醐寺に行ったときは、昔、ここにいっぱい美少年がいて、あんなことやこんなことしてたんだよなあ、と妄想してしまいました。 

崇拝の対象でもあった稚児         

はたして、稚児は単なる性的搾取の対象だったのでしょうか。
稲垣足穂によると、天海蔵『聖教秘伝』には、稚児について述べた僧侶の添書があり、そのなかで「稚児は本地、山王は垂迹なり」(前掲書:稲垣p339)と述べられているといいます。
また、稚児灌頂(ちごかんじょう)という儀式では「阿闍梨法師は稚児に四種の印明を授けて、終わってからお化粧をさせ、眉を作り、装束を着せ、天冠を戴かせ、自ら礼盤を下りて稚児を礼拝して」、「今この灌頂を授くるとき、阿字出でて汝は観世音菩薩となるなり」(前掲書:稲垣p340)と述べるそうです。
このことから、稚児は単なる性的搾取の対象ではなく、崇拝の対象となっていたことが窺えます。

・稚児物語での稚児=観音という図式

この稚児崇拝の思想は、鎌倉時代から室町時代にかけて、稚児と僧侶の恋愛を題材にした稚児物語にもあらわれています。
そのなかの一つである『稚児観音絵巻』では、十三四の稚児と六十余りの僧との情交が描かれています。
稚児は病で亡くなるが、五十七日後に稚児の棺を開けると、「栴檀沈水の異香、普く室内に薫ず。昔の蘭麝の粧を改て、金色の十一面観音を現」*2し、稚児が実は菩薩であったという結末となっています。
また、同じく稚児物語の一つである『秋夜長物語』では、十六七歳の稚児の梅若(若公)と律師の恋が描かれている。最後梅若は投身自殺をするが、ここでも「若公ノ身ヲ擲玉フモ観音ノ変化也」*3と、亡くなった稚児を菩薩の化身と解しています。

 

しかし、源信の『往生要集』で

 

悪見所となづくる地獄あり。他人の児子を強逼て。邪行を侵してよばはりなかしめたるものここにおちて苦をうくる也。(中略)又多苦悩所と云う所あり。おとこが男に愛着して邪行を犯したるものここにおちて。苦をうけける。(前掲書:岩田p14)

 

と男色や稚児を対象とした性関係を戒めていることから考えると、仏教では本来男色が禁忌であったのでしょう。
このように稚児を観音として考える思想は、少年を抱くための理由付けという側面があったのではないでしょうか。

禅宗寺院の美少年・喝食

さて、平安時代後期から始まった院政の影響によって強大な権威を手にしたこれらの密教寺院に、やがて腐敗が見え始めます。
横暴な僧兵たちが登場し、強奪が行われるようになったのです。
性に関しても「一稚児、二天台」などのように修業よりも稚児愛が重んじられるようになります(前掲書:岩田)。

鎌倉時代になると、腐敗した密教を批判し、武士たちの支持を受けた禅宗が盛んになります。
しかし、禅宗鎌倉時代末期には公家社会と密接な関係を結び、次第に貴族化していきます。*4
また、武家社会が安定すると、寺院は将軍家ともつながりを強めていきます。

岩田先生によれば、将軍や公家と禅宗寺院とをつなぐ役割を担ったのが、これらの寺院で召し使われていた「喝食」と呼ばれる少年たちでした。
稚児が垂髪姿であるのに対し、喝食は髪を肩の辺りで切りそろえたという外面的な違いはありますが、その役割はほとんど稚児と同じで、僧侶の男色の相手でした。
「喝食」という能面があり、そんな美少年の面影を感じることができます。

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喝食の能面 三井記念美術館所蔵
(西野春雄監修『能面の世界』平凡社、2012年、p48より)


南方熊楠によれば、喝食とは禅宗が渡る以前には見られなかった名称だそうです。
南方は、「若衆の名義起因」の中で『擁州府志』の以下の部分を引用し、喝食の様子について説明しています。*5

 

時に、僧徒喝食の中よりその容貌の美なるものを択び、白粉を傳きえん脂を粧い、斑紋の衣服を着け、黒衣の内に紅色の絹を縁どり、膳を供し茶を献ぜしむ。これより流風となり、ほぼ婦人の化粧のごとし。公家方もまたこれを寵す。

 

女のように化粧を施した喝食は、僧侶だけではなく、公家や将軍の性愛の対象となっており、寺院は、公家や将軍に性の対象として美しい喝食を提供し、権力との結びつきを強めていきます。
稚児もこのような勢力関係と無関係ではありませんでした。
稚児は、しばしば法会の際に延年舞という舞を披露しましたが、「延年舞に貴顕の観覧が加わり、更に禁延にまで進出していった結果を考うれば、(中略)僧族の貴顕に対する意図が働いている」(前掲書:岩田 p49)と岩田先生は指摘しています。

稚児・喝食まとめ

稚児や喝食という少年愛の文化は、芸術といえる絵巻物や物語を創造したのは事実です。そのなかの少年には、『古今著聞集』の千手や『稚児之草紙』の稚児のように積極性を見せる少年もいます。事実、そのような少年たちはいたかもしれません。
しかし、その一方で、こうした権力の犠牲となる少年を生み出していたことが理解できるでしょう。

次は、武士の少年愛・小姓のことを書きたいと思います。

*1:家永三郎ほか『日本佛教史 古代篇』法蔵館、昭和42年

*2:小松茂美編『当麻曼荼羅縁起 稚児観音縁起』中央公論社、昭和54年、p61

*3:「秋夜長物語」(市古貞二校注『御伽草子岩波書店、昭和33年、p484)

*4:赤松俊秀『日本仏教史 中世篇』法蔵社、昭和42年

*5:南方熊楠「若衆の名義起因」(『南方熊楠全集3』平凡社、1971年、p515)